犯罪減少と不安社会化

新聞記事の整理。朝日新聞2007年1月22日朝刊 時流自論「犯罪『減少』社会を診断する」(河合幹雄)より。要点メモ
一般刑法犯認知件数は04-06で毎年一割ずつ減っている。しかし犯罪急増の印象がある。これは、認知件数が2000年からの2年間で26%増したときに形成されたものだ。しかしこの増分は、被害届けを全件受理せよとの警察庁通達(00年4月)による。統計を見ると5月に急増してその後横ばいなのでそれがわかる。この減少傾向はしかも実は戦後の一貫した傾向であることが知られている。ではなぜ体感治安が悪化しているのか?
「それは「境界」の消滅にある」と河合は述べる。
要は犯罪が起こりやすい地域が囲い込みされておらず、どこでも犯罪が起こる状況になったので、不安が高まったと。
(同じようなことは東浩紀ドゥルーズに依拠してフィルタリングとゾーニングという概念を用いつつ指摘していたとおもう。境界規制によって棲み分けをはかるのではなく、ものや人が境界を越えて移動することを前提に、雑多に入り混じっているそれらをフィルタリングすることで規制しようとするのが、たとえば監視カメラ技術だ。複雑性がより高い社会への対応のひとつというわけだが)。

減少の要因は、「少年人口の減少に伴う少年犯罪の大幅減である。統計上、少年は一般に成人の約8倍犯罪を行うため、少年の人口比が減少すれば犯罪全体の数はかなり減少する。少年の犯罪率は変化していないため、人口減がストレートに表現されるわけである。次に考えられる要因は、経済状況の好転であろう。強盗や窃盗の著しい減少は、この解釈を支持している。」
河合の原稿は、しかし楽観論では閉じられておらず、改善されているように見える現状に「潜伏している」大病についても診断が必要だとし、減少傾向にある殺人による死亡者数よりも、「恐るべき勢いで増えて」いる自殺者の数を見るべきだとする。自殺と他殺は実は攻撃性がうちと外のどちらにむかうかの違いにすぎず、紙一重だというわけ。自殺者が年に3万人もいる社会はおかしいということだ。

凶悪犯罪を犯すような「反社会的な」輩は、矯正の余地を論ずる前に容赦なく罰するべきだ、という応報的な感覚が昨今蔓延している。これは日本の現象にとどまらず、むしろ英米などは日本の先を行くように見える。厳罰化をした結果どうなったか、日本人はそれらの国の現在にいわば「手本」を見ることができるわけだ。単純な比較は控えるべきだが、厳罰化した諸国の犯罪率が、日本よりも高く、警察力強化によって治安がよくなるわけではないということは基本的な知識として知るべきだろう。今日は最後も引用で。
「防犯カメラの設置のような協議の防犯対策より、自殺の多さに象徴されるような、社会全体の健全性の喪失に対処することを第一義に考えるべきである」。

安全神話崩壊のパラドックス―治安の法社会学

安全神話崩壊のパラドックス―治安の法社会学

ディスプレイの解像度

前回に続き、パソコンの話題。
 
 新しいノートパソコンは、これまでとおなじ15インチのディスプレイだが、解像度をVGAからSVGAにグレードアップした。で、単純に上位モデルなんだから、「なにかが」よくなるんだろうと期待していたら、解像度が高い分、ディスプレイに表示される文字やアイコンがより小さくなるということを知った。小さくなるということ自体は、購入機種を検討している際に、情報とは知っていたが、まあ字が小さいのが見にくいようであれば設定を変更すればいいくらいに考えていた。ところがこれがおもったより、やっかい。画面のプロパティでDPI設定を大きくしたり、デザインの詳細でデスクトップやオフィスなど普段使うソフトの見栄えを変えることはできるが、Webページを見るときに困ってしまった。

 もちろんIEで文字のサイズは切り替えられるが、Webページの多くがVGAの解像度に合うよう設計されているため、IEの設定では変えようがない部分が出てくる。とくにホットメールのメールの文字が小さすぎて読みにくい。新しく売り出し中のパソコンではSVGA以上がすでに主流になっているとはいえ、まだまだ世に出回っているパソコンの多くはVGAだから、現状ではしょうがないのだが、とはいえ、表示されるフォントサイズが多分8ポイントくらいしかないので、これでは目が疲れる。(そういえば、この日記のフォントもちいさいので、おおきくしよう)。

 しかしパソコンのモデルチェンジのサイクルを考えると、1−2年もしないうちに、Webページの設計も解像度の高いパソコン用に変わってくるのではないだろうか。あたらしい道具を持っている人にしか利用できないしかたで便益を供給するのは、道具の買い替えを促進するから、企業には好都合だが、お金を持っていない人、道具を買い換えられない人にとって、早すぎる環境変化は暴力になる(高速道路のゲートがいきなりETC用だけになったらどうなるか)。

 市場が回転していくことは確かにイノベーションをサポートし促進する側面があるが、あたらしいディスプレイを使いながら思ったのは、通常の用途には今までの解像度でも十分だったなあということ。ノートの画面の大きさはワイド画面などが出てきているとはいえ、15インチ程度で足踏みをしたまま、主流は変わっていない。たぶんノートパソコンの用途にこのサイズがかなっているからだろう。画面の大きさが15インチのままなら、これまでの解像度(VGA)でも十分だ。ノートパソコンだから画面が大きすぎてもサイズが大きくなって困るのであり、技術革新に対する需要にもその意味では限界がある。自足しようとする人間にたいして、欲望を作り出すように働かせるのが、経済なのであるが(こういうのを依存効果による欲求と呼んだのがガルブレイスだ)。
 ゲーム機などでもおなじようなことがおきている。ゲーム機本体が高性能でも、それを使いこなせるようなソフトがない、とか。。私はファミコンまでしか知らないので、以前弟がプレイステーションをやっているのをみて、映画さながらの映像にたまげたことがあるが、そういう世代の人たちにも最近はより単純なつくりのゲームが受けているらしいのだ。高度な技術を利用しているものが、より大きな快楽をもたらすとは限らないのである。

 TV放送も数年でデジタル化し、アナログの受信機は使えなくなるそうだが、「アナログで十分だ、双方向やオンデマンドなんて必要ない」という声は、消されてしまうほかないんだろうか。携帯メールの普及が聾者の世界を広げたように、技術革新がいつも強者の味方だけをするわけではないが、社会の「進歩」が、そうでない生き方を奪うということには気を配っておく必要がある。

不安社会と厳罰化

「・・・ちなみにひとつだけいってみると、 ひとびとが不安になるのがなぜ、といわれれば、 そのときにみるべきは、社会の変化であって、国際比較上の位置ではない。 つまり犯罪率が他国より低いということは、不安になることを妨げないということ。

ただし犯罪率に「変化」があるわけでもないので、 ようはいわれている「体感」治安の悪化がなにによるのかをかんがえなくてはいけないことになる。
(中略)
ううむ、そうだね。しかし不安社会になっているのは、ネオコン国家ではどこもおなじなんじゃないかねえ。 不安になった個が、しかし従来のゲマインシャフトに頼りようがなく、国家に要請をし、そこに権力をゆだねる構造になっている(夜警国家、保安国家)。保安国家というのは、ネオコン勢力の 思い描く理想だからねえ。してやられているとしか。。。 市場は自由にやらせろ、しかしお国よどうか守ってほしいというのは、結構人間の傾向性にかなっているところがある。傾向性というのは欲求とか利益追求とか動物的な部分(⇔理性的)。理性的に市民を説得するのではなくて、身体的、動物的な部分に訴えかけて支持を集 めるというやりかたに、民主主義が変容しているというのがひとつの見立て。おなじようなことはヴェーバーがすでにいっていた指導者民主制というやつ。 ヴェーバーはこちらをむしろ指示していたふしもあるが。ポピュリズムを分析したときに、これはつまり、討議民主制から指導者民主制(大衆がアピール力あるリーダーに拍手喝采をおくる) になっているということなのだ、というのが、暫定的な結論でした。」

キーボードカバー

今日は日記ふうに。
 先日ノートパソコンを購入した。
 私の自宅には現在、専用の食卓というものがなく、あいているほうの勉強机でラーメンを食べたりする。パソコンを置いているほうで、食事をすることはさすがにないが、それでもコーヒーを飲んだりということはあるので、キーボードに飲み物をこぼしたりしないか時々不安になる。
 そこでキーボードカバーなるものの購入を考えた。デスクトップ用のキーボードカバーがあるのは知っていたが、探してみたらノート用のものもあるようだ。
 そもそもキーボードは、埃がたまってしまうので、掃除が必要だし、カバーがあればキーボードの刻印が剥がれたり、ラップトップのちょうど左手を置く場所に張ってあるインテルのシールなどが汗で剥がれたりすることを防ぐことができる。私は特に汗かきというわけではないが、ノートはどうしてもHDDがキーボードの下にあるせいで、手があたたまるし、たしかに前に使っていたノートは一年半でシールが取れた。
 で、ノート用のカバーがあるのはみつかったが、どうも機種に合うカバーがない。マルチカバーなる全機種対応のものをみつけたが、これはどうやらただのシリコンシートをはさみで適当に切ってキーボード上に乗せるというもの。1200円もするが、どこかのブログで酷評されていた。キーの感触が悪いし、ずれるのだという。
 私のお気に入りのThinkpadはそもそもキーパッドの感触がうりものだから、それに支障が出るのではこまる。そもそもシリコンシートにかわる薄い耐水の素材はないものか。脇の机のうえにあったウレタンのシートをとってみた。最近インターネットで本を買ったときに梱包されていたものだ。うすいのはいいが、ちょっとつるつるする。そこでおもいついたのが、ドイツで買ったバインダ用のファイルポケット。触ったかんじがざらざらしてちょうどいいんじゃなかろうか。はさみで袋になっている部分をひらいて、キーボードに載せてみた。どうやらいいかんじ。ちょうどいいカバーがなくておさがしのかたには、こんなやりかたも手軽でおすすめです。
 ところでカバーをさがしていて目に付いたロジクールのアイテムをご紹介。デスクトップに比べてノートだとどうしても目線が低くなるので、肩がこる。もっぱらノートで作業する方にはいいかもしれません。(日本未発売)
http://www.logicool.co.jp/index.cfm/products/details/US/EN,CRID=2166,CONTENTID=12343#Specifications
 
今日の読書:廣松渉『世界の共同主観的存在構造』
ストローソン"Freedom and Resentiment"

虫歯減少と砂糖消費

朝日の日曜版に@データというコラムがあって、たまに面白いデータをみつける。
2007年2月25日分「むし歯 親が減って子どもも減る」
 残念ながらWeb公開されていないが、記事によれば、子どもの虫歯の数が戦後一貫して減少し、ついに戦前の水準までになった(一人平均1.8本)。これは識者によれば砂糖消費が80年代以降激減したことと相関しており、歯磨きの習慣が根付いたことも影響しているとのこと。
 たしかに日本では、甘いものを食べ過ぎることに対する警戒感、親から子どもへの注意が徹底している。甘いもの=子どものもの、苦いもの=大人の味というような図式もひろく共有されている。ドイツにいたころ、大人も子どもと一緒になってチョコレート(ヌーテラーとか)をパンに塗ってたべるのをみて、友人に聞いたら、家庭で甘いものを食べ過ぎないようにと親から注意されることはあまりないみたいだった。図体の大きないい年の大人がアイスクリームやなんかをぺろぺろなめながら歩いているのをみることも別に珍しくない。

 私はこれまでに一度だけしか歯医者に行ったことがないが、そのときも健康診断で歯石があるといわれたので、クリーニングにいっただけ。歯医者いわく「年齢に比してこの歯は100点」だそうだ。わあい。歯が丈夫なのは親に感謝しなければいけないが、私の場合は毎食後に歯磨きする習慣を家庭ではなく、高校時代の寮生活で身につけた。実家では朝と夜しか歯磨きをしないし、父も50代半ばから入れ歯だ。しかし三度三度の歯磨きが定着すると、食後歯を磨かないと気持ちが悪い。今では職場にも歯ブラシをおいている。
 似たような動向は実は全国的にも見られるようだ。なんでも70年代に文部省が小学校での歯磨きを奨励し、そのころの子どもが働くようになってからは職場で歯を磨くことも珍しくなくなったと、記事は伝えている。小学校で給食後にはみがきをさせられた覚えはないが、歯磨きをしたり、毎日お風呂に入るのは清潔でいいことだというような感覚は、すでにあった。低学年のときだが、夏休み中の課題で、歯磨き日記のようなものをつけさせられた。一日一回しか磨かなかったら赤、二回は緑、三回以上磨いたら青みたいなかんじで塗りつぶしていく。予想以上にほかの級友たちは、毎日三回以上磨いていたのに驚いたのを覚えている。
記事は次のように続く。「むし歯がなかなか減らなかった70年代には〈口が汚いから、あいさつにキスの習慣を取り入れるべきだ〉との声が歯科医から出たのがうそのよう」だって。ほんとかよ。。

受験生のはやりもの

 2月の大学は入試期間。先日はセンター試験について書いたが、今度は自分の大学の入試で試験監督。センターの時もそうだったが、試験にきている学生を何時間も眺めて「監視」していなければならないので、否応なくいろいろなことに気付く。目に付いたのが受験生グッズや縁起物。そのほかにも受験生に特有の文化があるようだ。今日はそのいくつかについて紹介してみる。

■文房具(1)
 まずはなんと言っても文房具。定番が、湯島天神の鉛筆。塗装のされていない素の地に、金色で「合格祈願」などの文字が彫ってあるのだが、この鉛筆をもっているひとの多いこと。今日は190人の大教室だったが、数えて見たら、なんと25人くらいのひとがこの鉛筆を使っている。たぶん今の高校生は普段は鉛筆ではなくシャープペンシルを使うことのほうが多いだろうから、鉛筆はもっぱら「黒鉛筆使用」を指定することがよくある入試用に購入するのだろう。そこでどうせなら一緒に願掛けをということだと思われる。道真由来の縁起にくわえ、六角形ではなく四角いので「転がらない」ときた。この大学が東京にあるからということもあろうが、1割強のひとがもっているというのは、感覚として多い(私が地方出身だからか、はたまた受験文化に疎いから?)。今さらのことかもしれないが、湯島天神は大もうけにちがいない。
 しかしこの湯島天神鉛筆、試験監督をする側にとってはちょっとこまりもの。とくにセンター試験の時には、諺や格言の類が刻印された筆記用具は使用禁止と規程で指示されている。にもかかわらず、試験会場にこの鉛筆しか持ってきていないという受験生がおおいので、代わりの鉛筆を全員に貸し出すわけにもいかず、会場となる大学では判断に苦慮したところもあったのではないか。湯島天神も、入試に諺の書いた鉛筆を持ち込むのがまずいことくらい、想定して鉛筆をつくってくれればよいのだけれど、大学から苦情でも出始めるまでは無理か。英語や漢字のデザインされた服を着てくる人もいるし、線引きは難しい。
 鉛筆については、予備の鉛筆を輪ゴムで束ねておくという知恵も、多くの受験生によって共有されているようだ。なるほどなあとおもうのだが、たしかに試験中は筆箱はしまわなくてはいけないので、机が傾斜していたりすると、鉛筆が転がり落ちてしようがない。輪ゴムで束ねておけば縁起もよいというわけだ。予備校や高校の先生が教えるのかな?

■文房具(2)
 もうひとつの流行りもの文房具が、「カドケシ」というもの。以前の試験会場でも見かけたが、名前は今回の試験でケースに入れたまま机上においているひとがいたので知った。小さなキューブ(立方体)を葡萄のように組み合わせた奇妙キテレツな形をしている。
こんなの→ http://www.kokuyo.co.jp/stationery/kadokeshi/products/index.html
 ああ、たしかに消しゴムって角をつかって消すと綺麗に消せるから、角がたくさんあったら重宝するかもしれないなあと思う。マークシートの試験なんかで、小さく黒く塗りつぶしたところを訂正する場合はなおさらだ。受験生が使っている以外には、文房具屋などではそんなに見かけないが、こういう流行りって口コミでもひろがるだろうし、受験予備校などに通っていると情報が出回るものだ。マークシート試験用の鉛筆なんていうのもあるらしい。芯がマークの幅に平べったい形になっていて、ワンストロークでマークを塗りつぶせると言うもの。一分一秒を争う試験では、確かに便利だ。

■靴と靴紐
 今回の試験会場では、最前列にエナメルのヒールを履いている人がふたりもいた。しかも二人とも原色(黄色と赤)なものだから、机から前に投げ出した脚先が目だってしかたない。黄色のほうは履きこんであるようだったので受験用かどうかわからないが、赤のほうはきっと縁起をかついだんじゃないだろうか。試験中、その子は靴を脱いでいて、靴の中は金色のデザインだった。赤とか金とか、なんとなく縁起がよいとか言われそうだし、一種の勝負服(靴)かも。
 試験中、床に参考書などを投げ出していたり、かばんからはみ出ていると不正行為になりかねないので、教室を回りながら受験生の足元に目を配っていると、同じく赤い靴を履いているひとが他にもいた。なかには靴紐だけ、真新しい赤ヒモだったり、金色のヒモの人もいた。どこまでそうした縁起物の御利益を信じているのか、わからないが、「受験で一生が決まる」と信じ込まされている高校生にとっては、ワラにもすがる思いだ。
 受験グッズというわけではないが、女の子なら、きっとヘアバンドにもこだわりがあるだろうとおもいきや、こちらはそうでもなかった。やはり赤や金のバンド、ヘアゴムをしているひとが数人はいたが、目立つほどでもなかった。むしろ昨今では珍しくないのかもしれないが、男子でヘアバンドをしているひとがたくさんいたので、こちらのほうが気になった。


■受験という「文化装置」について考える
 流行りものについて述べてきたところで、ついでに「受験文化」というものについてもう少し突っ込んだことを書いておく。
 社会の「学校化」ということが言われるくらい、現代の日本に住む未成年にとって、学校的価値が生活のほとんどを覆い尽くしてしまっている。(ちなみに07年は大学全入時代の始まりということが言われていて、受験希望者の数が定員数を下回るという時代になった。人気大学はそれでも定員の何倍の学生が受験に訪れ、受験料という名の莫大なお金を落としていくが、それ以外の大学では、定員われで、ひどい試験結果の学生も受け容れざるを得ないような状況にある。)学校での成功失敗は、学校という価値が、学校の外の生活(家庭・地域・交友関係etc.)でも重要視されていればいるほど、当人にとって重くのしかかってくる。
 とくに受験校と呼ばれるような高校で三年間を過ごし、受験勉強にまっしぐらだった学生は、高校というちいさな社会以外の社会をしらず、「受験文化」とでもいうべきものにどっぷり漬かって、大学に入学してくる。彼ら/彼女らはとりわけ現代文や歴史教科書などに書いてある記述を通して、社会について学び、価値観を形成する。これらのテキストはテストの「本文」を形成する限り、「正当な一義的解釈」を含む「問題文」であり、あるべき主張、真実を映す世界観の範でさえある。そこにかいてあることを素朴にうけとり、暗記し素朴に反復できることが受験の中で要請されている。言うまでもないが、このようなテキストへの態度は、大学以降の高等教育で本来その入り口を垣間見るはずの「学問」におけるそれとは、まったく逆のものである。ものごとを批判的に捉え返すこと、根拠を疑ってみることこそが学問的思考のはじまりだからだ。
 受験生が受験勉強を通じてどのような考え方、価値観を見に付けているのかを確かめるためには、最近の高校の教科書や多種ある入試問題にどのような記述があるか詳細にたどってみることが必要であるが、上で述べたようなことの例としては、戦後さまざまなかたちで展開されてきた日本文化論のごときものが、入試の問題文としてよく取り上げられることを想起すれば足りる。もちろん入試自体はそこに書いてある「日本文化に特有の」美徳、習慣などを、正しいものとして受入れよと指示しているわけではないのだが、社会についての記述を毎日の新聞や読書を通じてではなく、もっぱら受験問題を通じて目にするのが今の高校生たちだ。そうであれば彼らが、そこに書かれてあることを、「正しい」「事実」の記述として素朴に受入れることに不思議はない。かつては批判的に読まれることもおおかったであろう「文化論」の類が、それ以外に批判のベースとなるべき知識をもたない人々に素朴に「正しい知識」として受容される。そのようなしかたで、次代を担う若者の素朴な世界観が再生産されているのだ。これは無論、受験問題をつくるものの「意図せざる結果」であるといってよいが、このように受験システムが巨大な文化製造装置としてあることを、わたしたちは見逃すべきではないのである。