受験生のはやりもの

 2月の大学は入試期間。先日はセンター試験について書いたが、今度は自分の大学の入試で試験監督。センターの時もそうだったが、試験にきている学生を何時間も眺めて「監視」していなければならないので、否応なくいろいろなことに気付く。目に付いたのが受験生グッズや縁起物。そのほかにも受験生に特有の文化があるようだ。今日はそのいくつかについて紹介してみる。

■文房具(1)
 まずはなんと言っても文房具。定番が、湯島天神の鉛筆。塗装のされていない素の地に、金色で「合格祈願」などの文字が彫ってあるのだが、この鉛筆をもっているひとの多いこと。今日は190人の大教室だったが、数えて見たら、なんと25人くらいのひとがこの鉛筆を使っている。たぶん今の高校生は普段は鉛筆ではなくシャープペンシルを使うことのほうが多いだろうから、鉛筆はもっぱら「黒鉛筆使用」を指定することがよくある入試用に購入するのだろう。そこでどうせなら一緒に願掛けをということだと思われる。道真由来の縁起にくわえ、六角形ではなく四角いので「転がらない」ときた。この大学が東京にあるからということもあろうが、1割強のひとがもっているというのは、感覚として多い(私が地方出身だからか、はたまた受験文化に疎いから?)。今さらのことかもしれないが、湯島天神は大もうけにちがいない。
 しかしこの湯島天神鉛筆、試験監督をする側にとってはちょっとこまりもの。とくにセンター試験の時には、諺や格言の類が刻印された筆記用具は使用禁止と規程で指示されている。にもかかわらず、試験会場にこの鉛筆しか持ってきていないという受験生がおおいので、代わりの鉛筆を全員に貸し出すわけにもいかず、会場となる大学では判断に苦慮したところもあったのではないか。湯島天神も、入試に諺の書いた鉛筆を持ち込むのがまずいことくらい、想定して鉛筆をつくってくれればよいのだけれど、大学から苦情でも出始めるまでは無理か。英語や漢字のデザインされた服を着てくる人もいるし、線引きは難しい。
 鉛筆については、予備の鉛筆を輪ゴムで束ねておくという知恵も、多くの受験生によって共有されているようだ。なるほどなあとおもうのだが、たしかに試験中は筆箱はしまわなくてはいけないので、机が傾斜していたりすると、鉛筆が転がり落ちてしようがない。輪ゴムで束ねておけば縁起もよいというわけだ。予備校や高校の先生が教えるのかな?

■文房具(2)
 もうひとつの流行りもの文房具が、「カドケシ」というもの。以前の試験会場でも見かけたが、名前は今回の試験でケースに入れたまま机上においているひとがいたので知った。小さなキューブ(立方体)を葡萄のように組み合わせた奇妙キテレツな形をしている。
こんなの→ http://www.kokuyo.co.jp/stationery/kadokeshi/products/index.html
 ああ、たしかに消しゴムって角をつかって消すと綺麗に消せるから、角がたくさんあったら重宝するかもしれないなあと思う。マークシートの試験なんかで、小さく黒く塗りつぶしたところを訂正する場合はなおさらだ。受験生が使っている以外には、文房具屋などではそんなに見かけないが、こういう流行りって口コミでもひろがるだろうし、受験予備校などに通っていると情報が出回るものだ。マークシート試験用の鉛筆なんていうのもあるらしい。芯がマークの幅に平べったい形になっていて、ワンストロークでマークを塗りつぶせると言うもの。一分一秒を争う試験では、確かに便利だ。

■靴と靴紐
 今回の試験会場では、最前列にエナメルのヒールを履いている人がふたりもいた。しかも二人とも原色(黄色と赤)なものだから、机から前に投げ出した脚先が目だってしかたない。黄色のほうは履きこんであるようだったので受験用かどうかわからないが、赤のほうはきっと縁起をかついだんじゃないだろうか。試験中、その子は靴を脱いでいて、靴の中は金色のデザインだった。赤とか金とか、なんとなく縁起がよいとか言われそうだし、一種の勝負服(靴)かも。
 試験中、床に参考書などを投げ出していたり、かばんからはみ出ていると不正行為になりかねないので、教室を回りながら受験生の足元に目を配っていると、同じく赤い靴を履いているひとが他にもいた。なかには靴紐だけ、真新しい赤ヒモだったり、金色のヒモの人もいた。どこまでそうした縁起物の御利益を信じているのか、わからないが、「受験で一生が決まる」と信じ込まされている高校生にとっては、ワラにもすがる思いだ。
 受験グッズというわけではないが、女の子なら、きっとヘアバンドにもこだわりがあるだろうとおもいきや、こちらはそうでもなかった。やはり赤や金のバンド、ヘアゴムをしているひとが数人はいたが、目立つほどでもなかった。むしろ昨今では珍しくないのかもしれないが、男子でヘアバンドをしているひとがたくさんいたので、こちらのほうが気になった。


■受験という「文化装置」について考える
 流行りものについて述べてきたところで、ついでに「受験文化」というものについてもう少し突っ込んだことを書いておく。
 社会の「学校化」ということが言われるくらい、現代の日本に住む未成年にとって、学校的価値が生活のほとんどを覆い尽くしてしまっている。(ちなみに07年は大学全入時代の始まりということが言われていて、受験希望者の数が定員数を下回るという時代になった。人気大学はそれでも定員の何倍の学生が受験に訪れ、受験料という名の莫大なお金を落としていくが、それ以外の大学では、定員われで、ひどい試験結果の学生も受け容れざるを得ないような状況にある。)学校での成功失敗は、学校という価値が、学校の外の生活(家庭・地域・交友関係etc.)でも重要視されていればいるほど、当人にとって重くのしかかってくる。
 とくに受験校と呼ばれるような高校で三年間を過ごし、受験勉強にまっしぐらだった学生は、高校というちいさな社会以外の社会をしらず、「受験文化」とでもいうべきものにどっぷり漬かって、大学に入学してくる。彼ら/彼女らはとりわけ現代文や歴史教科書などに書いてある記述を通して、社会について学び、価値観を形成する。これらのテキストはテストの「本文」を形成する限り、「正当な一義的解釈」を含む「問題文」であり、あるべき主張、真実を映す世界観の範でさえある。そこにかいてあることを素朴にうけとり、暗記し素朴に反復できることが受験の中で要請されている。言うまでもないが、このようなテキストへの態度は、大学以降の高等教育で本来その入り口を垣間見るはずの「学問」におけるそれとは、まったく逆のものである。ものごとを批判的に捉え返すこと、根拠を疑ってみることこそが学問的思考のはじまりだからだ。
 受験生が受験勉強を通じてどのような考え方、価値観を見に付けているのかを確かめるためには、最近の高校の教科書や多種ある入試問題にどのような記述があるか詳細にたどってみることが必要であるが、上で述べたようなことの例としては、戦後さまざまなかたちで展開されてきた日本文化論のごときものが、入試の問題文としてよく取り上げられることを想起すれば足りる。もちろん入試自体はそこに書いてある「日本文化に特有の」美徳、習慣などを、正しいものとして受入れよと指示しているわけではないのだが、社会についての記述を毎日の新聞や読書を通じてではなく、もっぱら受験問題を通じて目にするのが今の高校生たちだ。そうであれば彼らが、そこに書かれてあることを、「正しい」「事実」の記述として素朴に受入れることに不思議はない。かつては批判的に読まれることもおおかったであろう「文化論」の類が、それ以外に批判のベースとなるべき知識をもたない人々に素朴に「正しい知識」として受容される。そのようなしかたで、次代を担う若者の素朴な世界観が再生産されているのだ。これは無論、受験問題をつくるものの「意図せざる結果」であるといってよいが、このように受験システムが巨大な文化製造装置としてあることを、わたしたちは見逃すべきではないのである。