不安社会と厳罰化

「・・・ちなみにひとつだけいってみると、 ひとびとが不安になるのがなぜ、といわれれば、 そのときにみるべきは、社会の変化であって、国際比較上の位置ではない。 つまり犯罪率が他国より低いということは、不安になることを妨げないということ。

ただし犯罪率に「変化」があるわけでもないので、 ようはいわれている「体感」治安の悪化がなにによるのかをかんがえなくてはいけないことになる。
(中略)
ううむ、そうだね。しかし不安社会になっているのは、ネオコン国家ではどこもおなじなんじゃないかねえ。 不安になった個が、しかし従来のゲマインシャフトに頼りようがなく、国家に要請をし、そこに権力をゆだねる構造になっている(夜警国家、保安国家)。保安国家というのは、ネオコン勢力の 思い描く理想だからねえ。してやられているとしか。。。 市場は自由にやらせろ、しかしお国よどうか守ってほしいというのは、結構人間の傾向性にかなっているところがある。傾向性というのは欲求とか利益追求とか動物的な部分(⇔理性的)。理性的に市民を説得するのではなくて、身体的、動物的な部分に訴えかけて支持を集 めるというやりかたに、民主主義が変容しているというのがひとつの見立て。おなじようなことはヴェーバーがすでにいっていた指導者民主制というやつ。 ヴェーバーはこちらをむしろ指示していたふしもあるが。ポピュリズムを分析したときに、これはつまり、討議民主制から指導者民主制(大衆がアピール力あるリーダーに拍手喝采をおくる) になっているということなのだ、というのが、暫定的な結論でした。」